今年5月、三咲順子は松島、南三陸町、気仙沼を再び訪れ、気仙沼ではコンサートを行いました。東日本大震災から15年が経ったいま、現地の方々はどのような言葉を口にするのか——帰ってきた三咲に、話を聞かせてもらいました。
現地で受け取った言葉
今回の旅で、三咲が最も印象に残ったのは、現地の方々との歓談中、震災直後の話題になった時に語ってくれた言葉でした。
「ゼロからのスタートじゃなく、マイナスからのスタート。前を向かなくては生きていけなかった。」
「人が亡くなりすぎて、涙も出なかった。」
「地震で揺れて、みんな逃げたんだけど、何かを取りに家に帰った人、家を見に戻った人は、みんな流された。」
「便利になって、かえって不便になった。」
短い言葉の中に、15年という時間が凝縮されているように感じました。

最初に見た光景——2011年4月
三咲が初めて被災地を訪れたのは、震災の翌月、2011年4月のことでした。知人から「視察に行くけど、乗ってくか?」と声をかけられ、二つ返事で同行を決めました。
福島の原発のそばを車で通り、防護服を着た人たちが立つ境界線の前まで進みました。人気のない住宅街には、置き去りにされたとおぼしき犬たちが、泥だらけになって歩き回っていました。そのまま海岸沿いに北上し、宮城から岩手の陸前高田、大船渡、釜石へ向かいました。
かつて集落があったはずの場所は、何も残っていませんでした。建物がなくなっている家の基礎を前にして、家人が茫然と立ち尽くしている。その姿を、三咲は写真に収めることができなかったといいます。「私はもう申し訳なくて、一枚も写真を撮れなかった」と。
とある漁村で、手つかずのがれきの山。釜石では、アメリカ軍が活動し、建物にはスプレーで○や×が大きく描かれていました。まるで戦争の後のような光景だったと言います。
まだ誰とも面識もなく、知り合いもいない。それでも、あのひどい有様を目にしてしまった以上、見た責任というか、見て終わりにはできない——そう強く感じて、東京に戻りました。この街が元に戻るまで、自分も何か手助けの一助になりたい、という思いを胸に。
7月、避難所へ
三咲は当時、全国の消防署で公演活動をしていました。そのご縁を頼りに消防本部に「被災地に行きたい」と申し出ると、宮城県の登米消防本部が動いてくれました。南三陸町の人々が避難している体育館に、案内してもらえることになったのです。
7月の初め、コンサートをするために初めて避難所を訪れました。消防の方からは「行きだけはなんとか行けるけれど、帰る手段がない」と言われましたが、三咲は「皆さんと一緒に体育館に泊まります」と告げたそうです。内地から派遣された担当者には「本当にここに泊まるんですか? 今までそんな人はいません」と驚かれ、「それなら一つ部屋が空いていますから、よかったらどうですか?」と提案してくださいましたが、三咲は「皆さんと同じところで寝たい」と言って、体育館の床に敷物を敷いて横になりました。誰かが咳払いをするだけでも音が響き、ほぼ一晩中眠れませんでした。多い時には300人近い人々が、それでも何か月もそこで暮らしていたわけです。
コンサートは喜んでいただけました。でも三咲の口から出たのは「励ますつもりが返って励まされた」という言葉でした。おばあさんが「こんな遠くまで来てくれてありがとうね」と言い、「CDがあったら買うから」と声をかけてくれました。
コンサートよりも、もっと心に残ることがありました。コンサート以外では調理場のようなところで皆さんと一緒に食事の支度をしていたのですが、ひとりの女性とたまたま話し込んだのです。その人が、さちこさんでした。
さちこさんとの出会い
さちこさんは、「女ボス」のような存在感のある人でした。調理場で隣り合わせになり、身の上話を聴かせてくれました。震災を機に、ご家族内で起きた辛い話を聴いて一緒に涙し、また、調理しながら笑い合ったりしました。
「お話を聴く、ということが、自分がコンサートをやるよりも少し力になったんじゃないかなって思う」と、三咲は言います。
これが、長いご縁の始まりでした。さちこさんを起点にグループの人々と知り合い、毎月通うたびに関係が深まっていきました。有名な人も含め、一度は訪れた人はたくさんいた。でも、再度訪れる人はほとんどいなかったと地元の方が仰いました。「最初は『東京から誰か来たべ』みたいな感じだったんでしょうけど、継続することで皆さんに受け入れてもらえた」と、三咲は感じていました。

音楽で元気づけられたという実感が持てなかったからこそ、「ここに来るしかない」という思いが生まれた、と三咲は言います。毎月キーボードを持参し、いろいろと乗り継いで通い続けました。子どもたちへの読み聞かせをしたり、コンサートをしたり——でもとにかく、行くこと自体が大事だと感じていたのです。
8月末には仮設住宅が完成し、体育館での避難生活が終わり、それからは仮設住宅へ通うようになりました。

「会いたい人がいるから、会いに行く」
震災の年の終わり、南三陸町や陸前高田でご縁ができた方々から言われました。「東京で地震があったら、こっちにおいで。ふるさとだと思ってほしい」と。印象的だったのは、その方々から三咲に語られた言葉でした。「震災は忌まわしいけれど、震災によって出会えた。」
三咲は東北には縁もゆかりもありませんでした。それでも今、気がかりなことがあれば電話をかけ合う、親戚のような人たちがそこにいます。
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「絆という言葉は、震災以降あまりに使われすぎてしまったけれど」と前置きしながら、三咲は言いました。「本当にシンプルな話で、会いたい人があそこにいるから、会いに行く。ただそれだけなんです。」「当初は、一箇所でも多く被災地を回りたいという気持ちでした。でも訪れるたびに、ご縁ができた方々との間に確かなものが育まれていくのを感じ、気づけばそういう場所にこそ、繰り返し足を運ぶようになっていきました。」
「励ますつもりが励まされて帰ってきたような気持ちになり、だからこそもっと自分にできることをしなくちゃ、という気持ちになっていました。」

最初の5年間で30回以上通い、自費での費用は300万円以上になると計算した知人がいました。そんな計算をした事がなかったので私も驚き、「今から300万円出せと言われたらとてもできない。でも当時は、仕事をしては現地に行く費用を捻出する、の繰り返しだった。私は人に認められるためではなく、何か力になりたい、という一心で動いていました。最初はそうでしたが、月日が経つにつれ、ただただ会いたい人に会いに行くという、シンプルな形になっていきました。振り返って思うのは、私にとって人は財産で、心が伴わなければ深く関わることはできない、ということです。」

役に立ちたい——子どもの頃から変わらないもの
なぜ、そこまでできるのか。話を聞きながら、その根っこを尋ねてみました。
小学生の頃、テレビでボランティア活動のニュースを見るたびに、「私も行きたい。でも子どもだから行けない」と思っていたといいます。誰かに言われたわけでも、教わったわけでもなく、ただ自然にそう思っていた。
振り返ってみると、本の影響が大きかったかもしれないと三咲は言います。「小さい頃から本をいっぱい読んでいました。心が温かくなるような話や、人の伝記や生き方に触れるような本が好きだったんでしょうね。」
また、子どもの頃から友人たちの悩み相談を受けることが多かったそうです。「順子ちゃんは、どうやって自分の悩みを解決しているの?」と聞かれることもあったといいます。その頃の三咲は、本を読みながら自分なりに考え、答えを見つけていました。誰かに相談することは少なかったけれど、友人たちの話はよく聴いていました。そうした経験も、人の話に耳を傾ける今の姿につながっているのかもしれません。
そんな三咲が子どもの頃に掲げていた夢を聞いて、思わず聞き返しました。「世界平和」だったというのです。ちょっと変わった子どもだったかもしれない、と笑いながら話してくれましたが、その夢を実現するために政治家になることを考えたこともあったといいます。でも最終的に選んだのは、音楽や演劇、表現活動を通じて、その思いを伝えるという道でした。「人を大切に、それぞれの違いを認め合い、受け入れる。目の前にいる人、身近な人を大切にすることが、ゆくゆくは世界平和につながるのだと思うようになりました」と、三咲は言いました。
そして、お母さんのことを「マリア様みたいな人」と表現します。慈悲深く、さまざまな人に手を差し伸べる——そのお母さんの姿を見て育ったことが、知らず知らずのうちに自分の中に入っていったのかもしれない、と三咲は静かに話してくれました。お祖母さんからは、優しさと共に強さと自立を受け取った。その両方を受け取りながら育ったといいます。
一人語りというかたち
もともと教員を志していたこと、17、18歳から芝居に関わってきたこと。演じることへの情熱と、自分のメッセージを伝えたいという気持ちが、長い時間をかけて一つの形に結びついていきました。
芝居は、役をもらわなければできません。でも、詩を声に出して読み、そこに音楽を添えることは、自分で始めることができた。「この詩は素晴らしい、声に出したい」という感覚から、朗読に音楽が重なり、物語が加わり——それが「一人語り」というスタイルになっていきました。正式に外に向けて発表したのが2002年のことです。
「生まれ変わっても、またやりたいと思うくらい、ライフワークだと感じています」と、三咲は言います。
順子の「順」という字には「従順」の意味があります。今回の三咲の話を聞きながら、「誰かに従うのではなく、自分に従って生きてきたんだ」という思いが、何度も私の心に浮かんできました。自然体で、ただ大切にしていることをひたすら続けていく——その姿勢が、15年以上の東北通いにも、一人語りにも、変わらずに流れているように感じます。
今も続く縁
今回の旅で、さちこさんたちのグループと再会しました。三咲が撮った写真の中に、エプロン姿のさちこさんがいます。
長いようで短い15年。グループの中には、娘さんとお孫さんが今も見つかっていない方がいます。「どこかで生きているんじゃないかと思ってしまうの。」そう語る言葉の重さは、15年という時間を経ても変わりません。
それでも毎年、「元気で会おうね」と言って別れる。そしてまた会う。その繰り返しが今も続いています。
震災をきっかけに始まった三陸とのご縁は、いつしか支援する側、される側という関係を超え、人と人とのつながりへと育っていったようです。
今年も、「また元気で会おうね」と言って別れ、来年の再会を約束して帰ってきました。
